山陽道ガイド

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徳山城下より玖珂方面へ

徳山城下

 寛保元年(1741)の「御領内町方目安」によると、東川から新川(現山田川)までを“徳山城下”としていました。城下の“お堀”に見立てているのです。

《徳山藩》は元和三年(1617)に、毛利輝元の次子の毛利就隆が「都濃郡」を中心に三万石余の地を分与されたことに始まります。

寛永十一年(1634)には、禄高四万五千石(幕府公認)。館邸は下松の河内村に設けられたのですが、慶安元年(1648)幕府の許可をもらって、山陽道と海浜を南方に臨む金剛山の山麓の高台(周南市文化会館に碑あり)に居館を定めて、就隆は2年後に移ってきました。それまでの「野上村」は「徳山」と称されるようになりました。館邸は戦災で焼失しました。

お堀の役割を果たしている新川(現山田川)と東川(徳山城下)  文化五年(1808)写「周防國都濃郡徳山亜繪図」